虚構の館

こうして毎日日記を付けている人々が何万人いるのか。ブログという名目で何故人々は
日記を書き続けるのか。冷静に考えておかしくないかね、というのが金曜日の東浩紀氏の
考え。それはその通りだね。でもそれって一部虚構の書き物を楽しんでいることもあるがね。
ふと思ったが、今まで私はあまりにも問題なくすり抜けて来たことが
多すぎたのかもしれない。
自分にとって待つこともイライラすることもあまり感じることもなく、
言ってみれば王道か王道に近い所を歩いてこれた。それは運にもよる。
病気をしても結局歩きを止める必要はなく歩いてこれた。
そして曲がり角に来てしまった訳だ。一見すると行先も見えず道標もない、
ただ自分しかいない道に急に入った訳だ。途中でこの道に入るもの者もいる。
それは一つの運命だろう。別に怖がることもなくそこに入ればいいのにと。

今まで何も考えずに来て、サビついている部分がある。
知らずに来れたことがよかったのかどうかは分からないが、
今はそれを意識して生活の術をみがく必要がある。
急に周りから言われる理由がよく分からないが、そうした
ぼやけた感覚は早いうちに修理しないと少しなさけない。
自分に自信を持って動作することめげないこと。
自分で自分を作ることを忘れていたらしい。
でもそれはチェロや英語で最初にやっていたことだ。
チェロも移り変わりが激しかった時を思い出せ!
定食屋のように、会社の食堂のように、何も考えなくても前に並べられ、
それを選べばいい時代は終わったのか。自分で集めそれを料理しないと
何も食べられないかもしれない。そのために金をかせぐ必要もある。
でもそれがこれからの10数年である確率は高い。
そうならないかもという願いはあるが、こればかりは自分の力では
何ともできない。そこが一番つらいがリスク対策は考えられる。
それが上の考え方。でももっと案は練ることができそうだ。
つらいが前向きで行くしかない。あまり悩んだからといって解決にはならない。
自分でアクションをとらない限り変化は起きない。
パットは強く打たない限りホールインされないということだ。